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  • CHRONOLOGY

    年表

  • RIesen panzer IV

    号人型重機(リーゼンパンツァーフィーア)

     ドイツ製。設計はロージック社。製造はビルズ&エルフィールド社

    前年に輸出したⅢ号人型重機が日本から高い評価を得たことで、ドイツ国防軍はさらにこれを発展させたIV号重機の開発を決意する。
     しかし依頼を受けたロージック社は、ハインケル社から設計を引き継いだⅡ号人型重機がなかなか採用されないことに少なからず苛立ちを覚えていた。苦戦が伝えられるモスクワ攻略戦に1個大隊分の人型重機を投入すれば、戦況はすぐにでも覆せる。少なくともこの画期的新兵器を開発していた技術者達はそう信じて疑わなかった。実際、彼らの身内にも彼の地で命を落とす者が出始めていたのだ。
     総統との関係から採用を渋る国防軍に対し(当時の国防軍はヒトラーとその親衛隊であるSSに完全にその主導権を奪われており、元々総統と確執のあったハインケル社が手がけていた人型重機計画を表立って評価、採用することができなかった)ロージック社は開発遅延と言う一見地味だが確実に効果のある抵抗を試みる。実のところ、Ⅳ号の設計は1941年春の時点で、ほぼ完了していた。日本側の要望で、ある意味「間に合わせ」で作ったⅢ号の出来に納得できない技術者たちが、半ば自主開発の形でⅣ号の設計を続けていたのだ。こうして完成したⅣ号人型重機の試作機は、一連の人型重機開発における一つの到達点とも言える素晴らしい仕上がりを見せていた。


     Ⅳ号ではⅢ号に組み込まれた水中用エンジンの代わりに、予備のガソリンエンジンと強力な発電機が組み込まれていた。これは後のポルシェティーガーに採用されたものと同じ駆動システムで、Ⅲ号までの稼働時間が30分足らずと短かったことに対する対応策でもあった。また前回は時間的制約から諦めた脚部の新規設計もこのⅣ号に関しては完璧に仕上げられていた。小型で強力なモーターを各関節に組み込んだ結果、パイロットの思い描く姿勢を無理なくトレースすることが可能になっていた。
     こうして完成したⅣ号人型重機の初期ロット分12台は、総統とSSの目をかすめるため、シュナイダー准将率いる新兵器実験部隊、第7独立部隊へと送られた。しかしながら、1945年5月の時点でこの部隊が装備していたⅣ号人型重機は6台だけとなっており、残りの6台に関する記録は今の所どこからも発見されていない。

  • RIESEN PANZER III

    号人型重機(リーゼンパンツァードライ)

     ドイツ製。設計はビルズ&エルフィールド社

    1940年に完成したⅡ号人型重機は、前年にハインケル社が送り出したⅠ号と比べて遥かに人型に近いシルエットをしており、より洗練された機能美を備えていた。
     Ⅲ号重機の開発には、ドイツと同盟関係にある日本の意向が強く反映されていた。意外にも海軍主導でなされた日本からの要求には、操縦室の気密化と水中航行能力の附与という一見陸戦兵器らしからぬものも含まれていた。これは南太平洋における上陸作戦を考慮したものであったのだが、同時期のドイツでもイギリス上陸作戦を想定した各種兵器(シュノーケル付きⅢ号戦車など)が開発されており、用兵側の要求が両国で一致しているのは当時の枢軸側の勢いを反映した結果であるとも言えた。

     本来であれば新たに組み込んだ水中推進装置を支えるため最低でも脚部だけは新規に設計し直すべきであったが、1年以内に4個中隊(分隊)分36台を揃えたいという日本側の要望もあって、ロージック社はハンケル社から提供されたⅠ号人型重機の脚部を前後逆に組み付けると言う何とも「荒っぽい」設計仕様をまとめ上げた。しかしこれは必要以上に強靭な足腰をこの新型重機に与えることとなり可動域においては若干の制限はあるものの、大重量の携行兵器を運用を生み出して、結果としてこれは成功であった。
     こうした「やっつけ仕事」で生み出された新型人型重機ではあったが、受け取った日本側からの評価は非常に高かいものだった。ただし、同時に送られた専用火器が20㎜機関銃24丁と予備弾丸10,000発のみであったことから、火力不足を指摘する声を現場の指揮官から上げさせることになってしまい、一時期日独間の同盟関係にも水を差す事態に発展してしまった。
     日本が輸入したIII号人型重機は太平洋戦争末期に完成した新型戦艦に配備されてアフリカ方面に向かったようであるが、具体的な戦果は今のところ不明なままである。

  • RIESEN PANZER V

    Ⅴ号人型重機(リーゼンパンツァーフンフ)

     1941年のアフリカにおける戦闘の結果、対火星側巨人兵器の再右翼であるⅣ号人型重機は早くもその性能不足を露呈してしまう。火力、機動力、戦術の柔軟性。それらのどれもが火星側巨人兵器に大きく見劣していたのだ。慌てた陸軍兵器局はこれまでの方針を変更してロージック社とビルズ&エルフィールド社のみに限定していた人型重機の開発を他のメーカーに解放することを決定する。
     ビルズ&エルフィールド社と同じく、大手メーカーの下請けとして部品供給を行っていたフェルダー社はドルトムントに本社を置く工業用モーターの新興メーカーだった。大手強豪のボッシュ社にことごとく大型受注を奪われていたフェルダー社は社運を賭けたプロジェクトとしてこの新型人型重機の開発に名乗りを上げた。ハインケル社製のI号重機から一貫して一連の人型重機用に駆動用モーターを供給していたこともあり、フェルダー社の技術陣は随所に先行するⅢ号、Ⅳ号のパーツを流用しながら、初参入とは思えない手堅い設計案をまとめ上げた。実際Ⅴ号の腕部はIII号人型重機の脚部を流用して設計されており、それは元を辿ればフェルダー社がI号人型重機の脚部としてハインケル社から依頼されて設計したものでもあった。

     フェルダー社のこだわりはⅤ号の特徴とも言える大型の脚部に表れていた。これは簡単な操作で変形が可能で、6輪全てを接地させた「高速走行モード」では双輪式装甲車を上回る走行性能を発揮した。また人型重機初の複座による操縦方式を取り入れた点も斬新で、操縦手と射撃手を分けることでより正確な射撃が行えるようになっていた。
     その高い走破性能から一部では先行して配備された南極基地防衛用に開発されたものだと言われていたがそれは誤りである。その証拠に、南極に配備された車両も含めて操縦席には側面はおろか正面にも風防ガラスが取り付けられていない。極寒の南極用に開発されたものであれば、ここは確実に密閉されているべきである。
     試作機を運用した部隊からの評価は良好で、サイズ的に余裕があったことから88㎜対戦車砲などの大型砲を無理なく使用できるなど、なかなか勝手の良い車両であった。問題はその製造コストで、車体上下と両脚に発電用エンジンと大型モーターを備えた「贅沢仕様」のⅤ号人型重機はその製造にⅣ号人型重機4両分の資材とコストを必要とした。またパイロットの損耗も問題で、複座式であるが故にただでさえ数の少ない人型重機搭乗員を倍の速度で消耗させてしまう点も問題点として指摘された。その結果、正式採用の喜びも束の間フェルダー社はその製造数を極少数に限定する旨を軍部から言い渡されてしまう。何はともあれ、1945年に晴れて正式採用となったV号人型重機は当時の戦車に愛称を付ける慣例にならって、ツェンタオア(空想上の半人半獣の生物)と名付けられた。

     製造は全て南極の工場で行われたが、1945年に南極基地が放棄されて以後この車両を装備した部隊がどこへ向かったかは、正確な資料が残っていないため現在のところ不明なままである。

     

  • RIESEN PANZER VI

    号人型重機(リーゼンパンツァーゼクス)

     ドイツ製。製造はハインケル(Heinkel)社。

    かねてより提案していたジェット戦闘機の採用をライバルのメッサーシュミット社に奪われたハインケル社社長エルンスト=ハインケルは失意の底に沈んでいた。画期的な技術を持ちながらヒトラーとの政治的軋轢からルフトバッフェ(ドイツ空軍)と良好な関係を築けなかった同社は、一度は見切りをつけた人型重機開発を通じてドイツ国防軍に再度接近を試みる。とは言え、2年近く放置していた試作機を持ち出すだけで再参入できるほど事は甘くない。東部戦線の戦闘が激しさを増す中、まだ始まってもいない火星侵攻作戦の準備は国防軍の中でも後回しにされて当然であったのだ。だが火星に派遣されていた先遣隊が帰還して、現地の情報を持ち帰ったことで情勢は一変する。火星には当初想定していたよりも遥かに大型の巨人が多数存在していることが確認されたのだ。事態を重く見た国防軍はハインケル社に、Ⅳ号人型重機を製造したビルズ&エルフィールド社と協力してより大型でパワーのある人型重機を開発するよう指示を出す。その際開発期間を短縮するため、胴体などの体幹部分をハインケル社が、腕部及び脚部をビルズ&エルフィールド社がそれぞれ設計するよう軍部から別途指示が出された。これに対しハインケル社は大型化に伴う重量増大を極力抑えるため航空機と同じセミモノコック方式の構造をはじめて人型重機開発に持ち込んだ。一方ビルズ&エルフィールド社では、エンジンを大腿部に分散配置することで大幅な重量増加を避けながら、パワーをこれまでの1.5倍にまで高めることに成功していた。だが強力になったトルクを受け止めるため四肢の骨格(フレーム)も同時に強化しなくてはならなくなり、結果として完成した試作機は当初の想定を上回る大型の機となってしまった。(当初軍部から指示された想定全高は5m以内であった)。だがこれによりこれまでその運用に特別な技量を必要とした大型の人型重機用88㎜対戦車砲を難なく運用できると言う思わぬ恩恵ももたらされた。一撃で敵の巨人兵器を撃ち抜ける強力な砲を携行できるようになったことは、未知の敵と戦うパイロットにとっては非常に心強いものとなった。また腰部背面に、将来的な武装強化を見越して各種兵装を取り付けるハードポイントが設けられたのも特徴であった。

     

  • MARDER I/250/R

     マーダー自走砲。

     ドイツ製。製造はデマーグ社。

    来るべき火星侵攻に備えてドイツ軍が開発した半装軌(はんそうき)式自走砲。
     本土から遠く離れた火星上では兵員の数が著しく不足すると予想したドイツ軍は、Sd.kfz.250を製造していたデマーグ社にその派生型として極力少人数で運用できる新型戦闘車両の開発を行うよう指示を出した。
    1941年から運用されていたSd.kfz.250は半装軌式の前輪に駆動機能がないため、東部戦線の泥濘地では機動力が極端に落ちてしまうと言う問題を抱えていた。そのため新型車両の開発にあたってドイツ陸軍は
    デマーグ社に前輪の駆動化を強く要求した。これを受けたデマーグ社は基本的な足回りは既存のSd.kfz.250から流用したまま、問題とされた前輪にはモーター駆動式の「中輪」を新たに追加すると言う意欲的な設計案を提出した。これは後輪駆動前輪操舵式による優れた操縦性に対するデマーグ社のこだわりの表われでもあった。「中輪」のタイヤをキューベルワーゲンから流用したため性能的な不安はあったものの、デマーグ社の目論見は見事に当たり、東部戦線で欠陥品とまで言われたSd.kfz.250を優れた車台に生まれ変わらせることに成功した。
     搭載砲に関してはIII号戦車と同じ37㎜砲を予定していたが、その威力不足は開発当初から指摘されていた。そこで、独ソ戦で鹵獲したソ連製76.2㎜対戦車砲(通称ラッチェバム)が大量に持ち込まれたこともあり、これに自動装填装置を組み合わせたものを搭載させる旨の指示が改めて兵器局から出されることとなった。この自動装填装置は先に述べた火星侵攻に備えた人員削減策の一環として、軍(の一部)がラインメタル社に開発させていたもので、火星侵攻を前提にしたマーダーには必須の装置であると言えた。ラッチェバムが採用されたことにより、車体上部のデザインはほぼ同じサイズの砲を搭載したアルケット社製「マーダーIII」対戦車自走砲と似通ったものとなり、実際、部品も多くが流用されている。
     限定旋回も含めて砲の旋回機構はなく、操縦手が砲手を兼ねる仕様になっていた。そのため車長と合わせた2名で運用を行うように作られていたが、最悪の場合は操縦手一人での運用も可能であった。
     遮蔽物の少ない火星での戦闘を想定して車高は極力低く抑えられており、砲の迎角も最大10°までしか確保されていない。そのため、立体的機動を行う敵の巨人兵器には極めて不利な戦闘を強いられることが多く、実際の戦闘では味方の人型重機とペアになって攻撃にあたる戦術が多く取られていた。

     マーダーと言う名前は1943年になってアルケット社が製造した「マーダーIII」にヒトラーが初めて名付けたもので、デマーグ社製の新型戦車はその名前を流用してマーダーと呼ばれていただけである。開発当初は単に「Sd.kfz.250/Ⅰ/R」と呼ばれていた。この名前の最後にある「R」は同じく対火星人用に開発された人型重機「Riesen Panzer」の頭文字をとったもので、この自走砲が対火星用に開発されたものであることを暗に示していた。実際、同系列であるSd.kfz.250やマーダー自走砲などのシリーズが次々に戦線に投入さて行く中、このマーダーⅠ/250/Rは一部の部隊を除いて全く配備すらされていなかった。そのため公式の戦闘記録にもほとんど登場しない謎の車両であった。ただ、搭載された砲の威力や機動力から推察される戦闘力はそれ程高いものではなく、東部戦線などの実戦場に投入されていたとしても戦局全体に与える影響は限定的であったと考えられる。そういった意味では他の人型重機などと比べてこの「マーダー」は遥かに「普通」の兵器であったと言える。

  • Our PRODUCTS

    RIESEN PANZER IV

    ¥3,500(税別)

     

    キャビコ製 1/35 インジェクションプラキット

    全国の模型店、ネットショップで好評発売中

    88㎜ gun Flak36-r

    ¥3,000(税別)

    コスモリブレ製 1/35 レジンキャストキット

    ワンダーフェスティバルなどの各種イベントにて販売

    KAMPF RIESEN MARS 1941/1945 解説本

    ¥5,000(税別)

    KAMP RIESEN MARS の世界を解説した公式設定本

    ワンダーフェスティバルなどの各種イベントのほか、東京秋葉原のイエローサブマリンにて販売されている

  • RIESEN PANZER DEVELOPMENT HISTORY

     人型重機開発記

     

    開発前史

     第一次大戦に敗北したドイツはヴェルサイユ体制下の戦後賠償に苦しんでいた。フランスをはじめとする戦勝国は普仏戦争から続くドイツの領土獲得欲をくじくため、過酷な経済制裁と再軍備の制限を課していた。これにより産業の基盤である鉱工業を破壊されたドイツはたちまち1000%を超えるハイパーインフレへと陥ってしまう。そんな中、打倒ヴェルサイユ体制を標榜して政治の表舞台へと登場したヒトラーに人々は危険な匂いを感じつつも次第に魅了されて行く。ヒンデンブルク大統領の死後、選挙により政権を掌握したヒトラーは欧州各国に対してヴェルサイユ条約の破棄と再軍備開始を宣言する。

     1940年9月。ポーランド侵攻を契機にイギリス、フランスとの全面戦争を開始したヒトラーは最低でもフランスへの侵攻は避けられないものと考えていた。しかし数的に勝るフランス軍に勝利するにはこれまでに無い大胆な戦術が必要になる。そんな中、陸軍のハインツ・グデーリアンが提唱した「電撃戦」と言う概念はヒトラーの思惑に上手く合致するものであった。

     電撃戦とは航空機による支援を受けた機甲部隊が一気に敵の深部にまで侵攻してその背後を突く作戦のことである。しかしこれを行うには最低でも以下に述べる二つの要素が必要であると考えられた。

     第一にそれは圧倒的な空軍力である。機甲部隊がその機動力を発揮するためには前線へと伸びる補給路を絶えず空から守り続ける必要がある。そのためには数的、性能的に勝る航空戦力によって該当地域の制空権を絶えず維持しておく必要があった。

     そして第二に、何よりも必要とされたのは機甲部隊の中枢をなす戦車部隊そのものであった。要塞や塹壕を超えて敵縦深へと進撃するには歩兵にはない攻撃力と迅速な機動力を持つ優れた戦車が必要であったのは言うまでもなかった。

     開戦前、戦車にその役割を奪われた歩兵部隊は急速にその数を減らすものと考えられていた。しかしいざ戦争が始まってみると現実はむしろその逆であった。実際の戦場においては歩兵部隊の支援なしには戦車は移動することすらままならなかったのだ。ここに至ってドイツ陸軍は改めて歩兵戦力の強化を迫られることとなる。

     

    機械化歩兵の開発(Riesen-Panzer Ⅰ)

     前述のように戦車が登場した後の戦場においても戦闘の主役は歩兵部隊であり続けた。いかに電撃戦を押し進めても所詮それは点と線の戦線を構築するに過ぎない。地域全体の制圧にはどうしても歩兵の持つ浸透力と柔軟性が必要であった。しかし戦車や機関銃などの大量殺戮兵器が登場した戦場では小銃と手榴弾しか持たない歩兵の攻撃力は著しく見劣りしするものとなっていた。 また装甲戦闘車両と比べた場合その対弾能力はほぼ皆無であり、歩兵は極めて脆弱な存在であるとも言えた。近代戦の戦場において歩兵は「あまりに脆くか弱い存在」であったのだ。歩兵部隊の能力向上についてはドイツ陸軍内でも様々な意見が交わされていた。装備を刷新することで攻撃力の向上させるのか、それとも防弾板のようなもので防御力を高めるべきか。ドイツ陸軍は前線から届く様々な要望に応えようと国内の軍需メーカーに多数の試作案を提示させていた。

     

    同盟国日本からの情報

     1937年1月、ドイツ陸軍に一通の航空郵便が届けられた。見慣れない形のその封書には一通の手紙と人型を模した機械の青図が入っていた。差出人は「大日本帝国関東軍大佐 明石平八郎」となっていた。大陸を隔てた同盟国から届いたその手紙が、しかしながらドイツ陸軍内で大きく取り上げられることは決して無かった。添付の青図は大変興味深いものであったが同封の手紙に書かれた内容が余りにも荒唐無稽であったためだ。この封書は担当官のデスクにしまいこまれたまま二度と陽の目を見ることはないものと思われた。

    事態が動いたのはそれから2カ月程経った春であった。新型戦車のライセンス契約を結ぶため陸軍の担当者とドイツを訪れていた日本の商社マンがドイツ陸軍本部でその手紙を見せられたのだ。青図に描かれた人型機械に思い当たる節のあった彼はその封書を譲り受けると、その足でドイツ航空機メーカーの雄、ハインケル社社主エルンスト・ハインケルの下にそれを持ち込んだ。次期主力戦闘機の採用を逃して苦境に陥っていたハインケル社は日本からの資金援助を条件に、この人型機械をドイツ国内で製造する契約を結ぶこととなる。

    のちに「Riesen-Panzer Ⅰ」(号人型重機)と名付けられたこのマシンはドイツ陸軍が望む歩兵戦力の強化には打って付けの兵器であった。

     日本からもたらされた青図には動力源、即ち発電装置に関する情報が欠落していた。関節の駆動は既存のモーターで代用出来たが、それらに電力を供給するシステムがどこにも組み込まれていなかったのだ。ハインケル社からの問い合わせに対し日本からは青森にある石神製鉄㈱の技師一人と共にバラ積み船一隻分の特殊な鉄鉱石が送られてきた。ドイツ最大の鉄鋼メーカー・クルップ社の協力の下、何とか精錬されたその金属はこれまでにない軽さと強度を備えていた。骨格フレームにこの金属を使用して造られた試作Ⅰ号機は、パイロットが乗り込むと動力源を持っていないにもかかわらず自動的に起動して動き始めた。全高約5メートル。頭こそ無かったものの一対の手足を備えたそれは正に「機械化歩兵」と呼ぶに相応しい姿をしていた。

     

     

     

  • 人型重機開発記

    Riesen Panzer ,

     1940年に入ると、ハインケル社は本来の航空機製造に専念するため(一説にはハインケル社が前年に初飛行させたジェット戦闘機の実用化に専念するためであったとも言われている)Ⅰ号人型重の量産とそれに続く改良は関連会社であるロージック社とビルズ&エルフィールド社に引き継がれることとなった。

     ハインケル社から開発を引き継いだロージック社はドイツ・ルール地方にある老舗の兵器メーカーで、その前身は中世の甲冑職人集団であったともいわれている。そのためか彼らは人型を模した機械の扱いに手慣れたところがあり、その勘所も良く心得ていた。1940年に完成した「riesen panzer Ⅱ」(Ⅱ号人型重機)は前年にハインケル社が完成させたⅠ号人型重機と比べて遥かに人型に近いシルエットをしており、より洗練された機能美を備えていた。電力の供給システムは依然として不明であったが、このⅡ号からは非常用としてガソリンエンジンと小型の発電機が搭載されるようになっていた。胴体の形状も大幅に見直されて被弾傾始を考慮した円筒形に近い形状に改められていた。また頭部が追加されたことでそのシルエットもより人間に近いものとなっていた。

    同年8月から製造されたRiesen-Panzer Ⅲ」(Ⅲ号人型重機)は主に航空機用の精密機器を製造していたビルズ&エルフィールド社によって開発が行われている。当時は時計などを製造する精密機器メーカーが航空機などの軍需産業に進出するのは良くあったことで、日本の99式艦上爆撃機を製造した愛知航空機も前身は時計メーカーの愛知時計電機であった。

    号人型重機の開発にはドイツと同盟関係にあった日本の意向が強く反映されていた。意外にも海軍主導でなされた日本からの要求には操縦室の気密化と水中航行能力の附与という一見陸戦兵器らしからぬものも含まれていた。これは南太平洋における上陸作戦を想定して要求されたもので、同時期のドイツでもイギリス上陸作戦を想定した各種兵器の開発が進められており、両国で用兵側の要求が一致している点は当時の枢軸側の勢いを反映していて大変興味深い。

     本来であれば新たに組み込んだ水中推進装置を支えるため、最低でも脚部だけは新規に設計し直したいところであったが、1年以内に4個中隊(分隊)分36機を揃えたいと言う日本側の要望もあり、ビルズ&エルフィールド社はハンケル社から提供されたⅠ号人型重機の脚部を前後逆に組み付けると言う何とも「荒っぽい」設計仕様をまとめ上げた。しかしこれは必要以上に強靭な足腰をこの新型人型重機に与えることとなり、可動域においては若干の制限はあるものの大重量の携行火器を運用できるだけの余裕をこの新型重機にもたらすこととなり、結果としては成功であった。そうした点が評価されてか、日本からの評価も相当に高かったようで早速追加のオーダーを獲得したとの記述がビルズ&エルフィールド社の記録に残されている。但し初期ロットと同時に送られた専用火器が20mm機関銃24丁と予備弾丸10,000発のみであったことから日本側の指揮官から火力不足を指摘する声を上げさせることになってしまい、一時日独間の同盟関係に水を差す事態にも発展してしまった。

     日本が受け取った号人型重機は太平洋戦争末期に完成した新型戦艦に配備されてアフリカ方面に向かったようであるが、具体的な戦果は今のところ確認されていない。

     

    Riesen-Panzer

     1941年12月。独ソ戦開始以来快進撃を続けていたドイツ中央軍集団は頑強なソ連軍の抵抗と猛烈な冬将軍の前にモスクワまであと8㎞を残した地点で撤退することとなった。これはヒトラーが目指した「電撃戦による戦争の勝利」と言う構想が潰えた瞬間でもあった。

     その前月、ドイツ南部のビルズ&エルフィールド社において人型重機の完成形とも言えるRiesen-Panzer Ⅳ」(Ⅳ号人型重機)の初期生産分がロールアウトしていた。前述したように、歩兵の強化を伴わない電撃戦は当初から致命的な欠陥を抱えていた。もしヒトラーがこの画期的新兵器に興味を示して積極的に戦線へと送り込んでいたら、独ソ戦はその最初の一年で全く違った結果に終わっていたのかもしれない。(注:実際には対火星巨人兵器戦以外での人型重機の戦場投入を禁止するツングースカ条約があったことが後年の研究によって確認されている)

     Ⅳ号人型重機ではⅡ号から搭載されていたエンジンと発電機をより大型のものに換装していた。電力供給のシステムは依然として不明であったが、発電量を増やすことで駆動力全般の底上げを図ろうとしたのだ。その結果胴体下部の直径が拡大され、全体のシルエットもやや人型から離れたものになってしまった。頭部には最新のステレオ式スコープが搭載されていた。これは砲兵用の複式測距儀を応用して作られたもので、これによりパイロットはより立体的に外部を視認出来るようになっていた。二つのレンズが「眼」のように配置されたことで頭部の形状は少しだけ人間のそれに近いものに変わっていた。発電量の拡大に伴って最大稼働時間も1時間にまで延長されていた。これはⅢ号までの稼働時間が30分足らずであったことを考えると倍の長さであり、人型重機の活動範囲を大きく広げる画期的な改良であった。

     初期ロット分36機の内、12機に関しては完成後すぐに輸送用のUボートに積み込まれている。後年発見された記録によると、「Ⅳ号」とそれに続く「Ⅴ号」の製造は1945年の4月まで継続されており、その間約5000機もの人型重機が出荷されたことになっている。繰り返しになるが、この種の兵器がドイツ軍に正式採用されることは終戦のその日まで決してなかった。となれば完成したこれらの機体は一体どこに送られていたのだろうか。近年の調査によると、この人型をした戦闘機械はこれまで信じられていたよりもかなり広い範囲で運用されていたことが判明している。それはいわゆる、第二次世界大戦の主戦場となった地域ではなく、比較的平穏であったとされる中央~南アフリカにかけての地域や南アメリカ大陸、そして一部の中東地域などであった。これらの地域の中心に南極大陸が位置していることは恐らく偶然ではない。そしてそれは2037年に南極大陸の地下でビルズ&エルフィールド社の工場が発見されたことによって証明されることとなった。つまり、一連の人型重機部隊を送り出していた拠点がこの南極大陸の地下施設であったのである。

     現在この地下施設に関してはドイツとアメリカの調査隊が引き続き詳しい調査を行っている。ただ最近では頻繁に発生するブリザードの影響でやや停滞しているとのことである。しかし一方においては新たにUボート用の港湾施設が発見されるなど、新事実も明らかになってきている。いずれにせよその全容が解明されるまではもう少し時間が必要なようである。

     

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